患者仲間の体験記(vol.1) ~「新たなるいのちと共に」村本高史さん ~

食道がんの治療で自分の声を失った村本さん。食道発声によって再び声を取り戻すまでの体験をリアルにお話しいただきました。(本内容は2017年5月~10月までのメルマガでご紹介しました)

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-「新たなるいのちと共に」 村本高史さん -

20094月、食道がんを宣告された。当時44歳、ビール会社の人事部門で課長だった。

年末からの喉を押される感じ。内科や耳鼻科で問題なしと言われ、消化器内科で内視鏡検査の予約をした。次第に物を飲込むとひっかかる感じもしてきた。その日、内視鏡を入れられた瞬間、「食道の入口に腫瘍がある」と言われた。初めての内視鏡検査の苦しさもあって、非常にショックだった。1週間後、正式に食道がんと言われた。縁遠いと思っていた病名が診断書に書いてある。現実感がなかった。 

 

本格的に治療ができる病院での再検査。声帯の真裏に5cmのがん。手術すると、基本的に声帯も切除する。先生は少し考えて言った。「とりあえず放射線治療をやりましょう」。方針が出るまで不安だったが、腹は決まった。

4週間、会社を連日、私用外出しての治療。併行した週1回の抗がん剤は、3回目で気分が悪くなり中止したが、放射線は予想以上に効果を発揮し、さらに3週間弱、かけられる限界量まで続けた。秋の検査で、がんは消えていた。 

不思議な気持ちだった。きっと生かされたのだ。仕事では、課題を先送りしてはいけないと強く思った。目の前の案件に今まで以上に全力で対処した。

 

2011年春、震災直後に人事部門の責任者に昇進した。慌ただしさが少しずつ落ち着く中、やりたいことはこれからだった。けれども、がんは甘くなかった。

2011年の初夏の頃から、再び喉にしみるような感じがしていた。放射線は既に限界までかけている。「今度やったら手術するしかないなあ。喉頭を全摘すると声が出なくなるなあ」。覚悟して受けた夏の検査で、食道の入口にがんが再発していた。ショックというよりも「来るものが来ちゃったなあ」と思う。「手術するしかないが、手術すれば治る可能性はあります。食道発声を習得すれば、小さい声だけれど出るようになります」と先生は言った。 

声が出ない人生とはどういうものなのか。入院の準備をする中、「失声」や「永久気管孔」のことなどをネットで調べながら、漠然とした不安と共に不思議さも感じた。

銀鈴会が主催する食道発声教室を知り、事前見学してみる。感動した。皆、食道や喉頭、下咽頭等のがんで声帯を失った人たち。教えるのは、同じ境遇から今では上達した先輩。明るく、でも懸命な練習風景を見て、「生きてさえいれば何とかなる」と、大きな勇気と希望を得て帰った。「あの人たちと同じスタートラインに早くつきたい」と心から願った。

9月下旬に入院。12時間余りの手術中に先生が判断し、奇跡的に声帯が残った。ところが、その日の夜中から明け方、咳が止まらなくなり、呼吸がどんどん苦しくなる。「人生はこうやって終わるのか」と思いながら、「妻を呼んでくれ」と言うのがやっとだった。「大丈夫ですからね」と繰り返す先生の声を命綱のように感じながら、鼻から気管までファイバーの管を入れられた。呼吸は楽になったが、声は一旦出なくなった。

 

2週間後、確認したい点があるとの先生の意向で再度手術室に入った。目覚めたのは、ICUのベッドの上。酸素の管が喉元に付いていて、「あっ」と気づく。最初の手術箇所が機能しておらず、緊急で手術をやり直し、その際に声帯を含む喉頭も全摘したとのことだった。「これで最初の予定通りだったのかもしれない」と思いつつ、もう少しでICUから出られるはずだったのに、振出しに戻ってしまったのはショックだった。しばらくは悪い夢を見たりした。

 

結局、ICUには26日間、入院は43日間。11月上旬に退院した。ようやく自宅に戻り、生きて帰れた喜びと安心感、妻への感謝で涙が出た。年内は自宅で療養した。

2012年の年初から仕事に復帰するに当たり、何よりも大きかったのは声帯を失ったことだ。食道発声教室には通い始めていたが、まだ会話というレベルではない。「すれ違っても挨拶の言葉も出ないなら、お互いに気まずい思いもするだろう」と考え、年末に社内外の人たちに自分の現状に関するメールを送った。心配をかけないよう、自分の病気はあまり大っぴらにしないのかもしれない。けれども、ある種の開き直りは結果的によかった。このメールの中に、「人間は自分が気づいている以上の可能性を持っていて、私もその一人であると信じ、自分にやれることをやりながら、自分にしかやれないことを考え、実行していきたい」と書いた。この時は、そう言うしかなかったのだろう。ただ、自分自身からすっと出たこの言葉は、その後も大きな拠り所になっている。たくさんの返信も頂いた。激励も多く、何度も読み返したりした貴重な財産だ。

仕事始めの日、休んでしまった申し訳なさも感じて出てきた会社は、温かく迎えてくれる仲間がいて、「やっぱりいい場所だなあ」と思った。コミュニケーションの手段は筆談になった。「周囲の人はどう対応してよいかわからないだろうから、こちらから働き掛けないと」と思い、電子メモで積極的に話し掛けたりしてみた。久々に会えた嬉しさや感謝も伝えたかった。

その年の3月、人事総務部長から部下なしの立場に異動した。複雑な気持ちもあったが、無理をさせないための温かい配慮だと受け止めた。ある人が言ってくれた「人間のプロになれ」という言葉も、心に刻みつけた。

 

201111月の退院直後から、食道発声教室に通い始めた。喉頭摘出者の団体、銀鈴会が主催し、卒業して先生となった人が後進を教える形式で、初心者から上級までクラス別になっている。食道発声は、食道に取込んだ空気を逆流させ、食道入口を震わせてげっぷの要領で声にする。一度に取込める空気の量に限りがあり、声の大きさやスピードは制約がある。また、私のように食道自体を再建すると、上から手で押さえないと声が出ない。

訓練は「あ」という音を出すのが第一歩だが、私は大変苦労し、最初の1ヶ月は一言も声が出なかった。もっとも、入院前に見学した時の感動があったから、諦めるつもりは一切なかった。むしろ、生きている喜びを感じながら気長に構えていた。

「あ」の音が出ると反復を繰り返し、次第に「あめ」「あたま」と音の数を増やして、同様に練習を重ねる。「同じ言葉を毎日1,000回練習すればうまくなれる」と言われつつ、半年経った頃から上達の手応えを感じた。安定して声が出るようになると、言葉をつなげれば、話もできるようになっていく。

食道や下咽頭、喉頭等のがんの性格上、60代以上がほとんどの中で、当時40代後半の私は超若手として可愛がられた。仕事に復帰後も会社を抜けて通学を重ね、3年前に卒業したが、人生の大先輩であるクラス仲間との交流は今も続いている。

声を取戻す過程で、本当に大きなものを得た。声帯がなくても声が出るくらいだから、やろうと思って積み重ねれば、すぐにはできなくても、大抵のことは実現できるという気持ちになった。また、同じ境遇の人たちからの希望や勇気、会社の仲間からの支えを、いつかは自分が返したいと思うようにもなった。 

声が出なくなって仕事の支障はあったが、仕事をしていたからこそ、「声がよく出るようになったね」と言われたり、些細なコミュニケーションが通じた喜びも実感できたりした。もちろん不便や不安はある。けれども、大病を経験したからこそ知った世界や出会えた人もあり、決して不運や不幸ではない。今もそう思っている。

 

2014年春、2年半通った食道発声教室を卒業した。一つの区切りだった。この頃から、自分が今後、生きていく上での軸、いわば「人生の目的と使命」を改めて問い直すようになった。

「目的」とは、自分がどんなことを体験、実感したいか。「使命」とは、他者に対してどんなふうに貢献し、何を提供したいか。目的だけだと独りよがりになるし、使命だけでもつらくなって長続きしない。両方でセットという考え方だ。社内の研修で以前に学んだことだった。

たどり着いたのは、私の人生の目的は、喜びと感動に満ちあふれた大きな物語を体験するということ。そして使命は、生きていく上での勇気や希望を人々に 提供していくということ。日々を過ごす上でのちょっとした後押しでもよいので、家族に、会社の仲間に、友人に、社会に、何かを提供できないかと考えた。

 

この思いから、2つのことを始めた。

1つは、勤務先での仕事として、本社の部長や課長を対象に個別ヒアリングや横断的ミーティングの場をつくり、彼らの声を受け止め、つなぎ、後押しをしていくこと。

もう1つは、終業後に闘病体験や「人生の目的と使命」を自らの声で伝え、語り合う「いのちを伝える会」だ。私の体験は、健康な社内の仲間にも何かの参考やヒントになるのではないか。一人ひとりの人生を少しでも豊かにし、よい会社にしていくことで恩返しができないか。関心のありそうな人に声を掛け、2014年秋から178人規模で始めた会は、恵比寿の本社棟で30回を超え、今年からは出張開催も行っている。これまで300人近くの仲間が参加してくれ、社外向けの会も始めた。

 

がんを経験し声も失った私が再び声を出し、人と向き合ってこそ自分ならではの貢献ができる。そのためには自分が話をしていくことが出発点だ、と気づいた。多様な人たちが率直に思いを語り、話し合っていくことで、挑戦や創造が次々と生まれる会社、ひいては、そんな社会の実現への一助になればと願っている。 

頸部食道がんの手術から6年が経過した。その後の再発・転移はなく、元気に過ごしている。声帯を失ったが、習得した食道発声で会話もできるようになった。

予想以上に苛酷だった入院生活を除けば、意気消沈することはそんなになかった。勤務先のサッポロビールの温かさ。発声教室やサバイバーの会合での新たな出会い。多くの人たちに支えられ、勇気づけられて、ここまでやってきた。

 学んだことは多い。入院中、死を意識した瞬間があった。「この瞬間を生き抜く」という思いの中、目の前のことに懸命に取組む大切さを知った。人生には終わりがあることも痛感した。そうであるならば、大切なものを心底から大切にしなければならない。一つの現れとして、会社の机には妻の写真を飾っている。

一日一日を積み重ねることの大切さは、日々の発声練習からの学びでもある。小さな積み重ねが、最初は見えなかった大きな未来をやがてつくり出すことがあると気づいた。

 仕事に復帰してからは、働く意味が人生の目的と使命と重なることを実感している。働くことは人の役に立つことであると同時に、人とのつながりの中で自分の存在価値を再確認することでもある。そのような喜びを感じられる会社であり、社会であってほしいと願っている。

1人の人間の1回しかない人生は、ちっぽけなものかもしれないが、であればなおさら、生きていた確かな足跡を残したい。大それたものでなくても、「自分は確かに生きていた」と言えるような何かを残せればよい。闘病を経ての痛切な気持ちだ。

「せめて50歳までは生きていたい」と思ったこともあったが、無事に50歳を過ぎてから2人の子供が生まれた。生きてさえいれば、いいことがあるものだ。

「一身にして二生を経る」という福沢諭吉の言葉に照らせば、手術後の私は「新しいいのち」を授かったのかもしれない。生きている素晴らしさと共に、そんな不思議さも感じている。一日一日を大切に、これからも自然体で生きていこう。

新たなるいのちと共に。

(おわり)

 

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